ウォルムス その2

ウォルムスの大聖堂にはルターの足跡などはまったくなかったが、その大聖堂と道一本隔てた向かい側に、「ルター広場」があった。実は、このウォルムスは宗教改革後にプロテスタントの街となったが、大聖堂だけはカトリックとして残ったのである。その時々の政治的な情勢から、ドイツの街ではそのようなことは珍しくなかったという。したがって、街の中には、当然、ルターを記念する広場などが設けられるわけである。そして、ルターに関わりのある大聖堂の横にその広場があるのも当然である。この広場の中心に、宗教改革に関わった複数の人物の像が建てられている。約150年前に建てられ、戦争でも破壊されず、そのまま残っているそうである。

真ん中は、言うまでもなく、マルティン・ルター(1483年~1546年)であり、聖書を抱えて顔を上の方に向けるという、いつものポーズである。

フリードリッヒ3世(1463年~1525年)。ザクセン地方を支配していた有力貴族であり、神聖ローマ帝国の皇帝を選ぶ権利を持っていたことから、選帝侯の一人でもある。ヴィッテンベクル大学を創設して、ルターをその教授にした人物である。また後に、国外追放となって、このウォルムスからヴィッテンベクルに向かっていたルターを保護してワルトブルグ城にかくまった。このようなことから、宗教改革の中ではヒーロー的な存在だが、彼自身はいつまでもカトリック側にいて、表立ってはルターを守る発言などもしていない。このようなことから、彼は信仰的な意味からルターを守ったのではなく、あくまでも、自分の領内に大きな混乱を起こさないように慎重に動いていたと考えられている。このように、彼は非常に賢く政治を行ったため、賢明公とも呼ばれている。ルターを国外追放にした皇帝カール5世も、自分を皇帝にしてくれたフリードリッヒ3世に対しては、いくら彼がルターをかくまっていると知っても、実際は何もできなかった。ルターが火あぶりにならなかったのは、間違いなく、この人物のおかげである。

表立ってルター側にいて活動していた人物が、このフィリップ1世(1504年~1567年)である。ヘッセン地方を統治していた有力貴族であり、最後まで、皇帝カール5世と対立した。早くから自分の領内をプロテスタントとして、積極的にルターを支援した。

宗教改革の源流を作った人物の一人であるジョン・ウィクリフ(1320年ごろ~1384年)。イングランド出身で、オックスフォード大学の教授となる。当時のカトリック教会を聖書から外れていると厳しく批判した。聖書を英語に翻訳したことでも知られる。しかし、彼の死後、カトリック教会から異端と決めつけられ、彼の墓は暴かれ、遺骨は川に流された。

ヤン・フス(1369年~1415年)。ボヘミヤ出身で聖職者となる。彼も宗教改革の源流を形成する人物であり、ウィクリフの思想を全面的に受け継いだ。しかし、カトリック教会から異端とされ、火あぶりの刑により死去。その後、彼の思想と運動を受け継ぐフス派が形成され、現在でも、フスはチェコの人々から尊敬されている。ルターもフスのことを知り、公に彼を認める発言をして、それがルターが異端である証拠のひとつとされた。

ルターの右腕とも言うべきフィリップ・メランヒトン(1497年~1560年)。ルターと同じく、ヴィッテンベクル大学の教授である。21歳で教授となったという天才。当時の哲学書、神学書に精通し、ギリシャ語も堪能であった。ルターが弁明する時はいつもその横にいて、彼をサポートした。また、国外追放となったルターが自由に活動できなくなった時でも、ルターの指示を受けて、ルターの分身として活躍した。ルター亡き後、スイスの宗教改革者であり、プロテスタント神学の基礎を築いたジャン・カルヴァン(1509年~1564年)と親交を持った。ルターとカルヴァンは直接会ったことがない。しかし、カルヴァンはもちろん、ルターを尊敬し、慕っていた。メランヒトンはカルヴァンに、ルターのことを詳しく話して聞かせてあげたことであろう。