ウォルムス その1 (9月21日)

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ラインラント=プファルツ州にあるウォルムス。その街の中心にある聖ペテロ大聖堂。ここで、ルターに対する最終的な判決が下された。
1517年、『九十五箇条の提題』によって巻き起こされた大反響を収めるため、ルターは段階的にさまざまな場所に呼び出され、弁論を求められることとなった。まず、1518年4月の「ハイデルベルク討論」は、所属するアウグスティヌス修道会の総会であった。同じ年の10月には、ローマ教皇から派遣された特使の前で「アウグスブルク審問」が行なわれた。修道院の中においても、教皇の特使の前でも、まったく自分の主張を曲げないルターに対して、ローマ教皇は、公の場でルターを異端と決めつけるために、1519年6月から7月にかけて、「ライプツィヒ討論」が行なわれた。最初から計画されていた通り、そこでローマ教皇庁から異端という判決が下され、最後は、神聖ローマ帝国の皇帝からの最終判決を下される段階となった。そこで1521年開かれたのが、このウォルムスにおける「ウォルムス喚問」である。当時の神聖ローマ帝国の皇帝であるカール5世の前でルターは尋問され、国外追放の最終判決が下されたのである。当時、宗教的な事柄は聖堂の中で行われたことから、その場所は、このウォルムスの大聖堂であったとされている。
 
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大聖堂の祭壇。この聖堂は依然としてカトリックである。そのため、ここでルターの尋問が行われたということは、当然のように記念されておらず、聖堂の中でその跡などを確認することは全くできない。ただし、聖堂について説明する小冊子には、皇帝の前でルターが尋問されるという出来事があったことは記されている。
 
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ウォルムスの街は、以前は城壁で囲まれていた。写真は、当時のまま残されている街の城門である。すぐ左手遠くに大聖堂の屋根が見える。
ルターは国外追放の判決を受けて、再びこの門から出て、彼が教えていた大学のあるヴィッテンベクルへと向かったのだった。
 
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城門を出ると、すぐにライン川にかかる橋につながっている。この橋は、中央部分だけが新しく、その両側の部分は古いままである。第二次世界大戦の時、ライン川を渡って来るフランス軍を防ぐため、ライン川のすべての橋は、ドイツ軍によって爆破された。この橋は、その後、掛け直されたため、爆破された中央部分だけが新しい。
さて、城門を出たルターは、この橋を渡って進んで行った。そして、ある森の中を通過中、一団の騎士たちに拉致され、ワルトブルグ城に連れて行かれた。その騎士団は、フリードリッヒ3世から遣わされた者たちであった。ルターはワルトブルグ城に10か月間かくまわれ、その身が守られることとなる。そのことは、ワルトブルグ城の項目参照。