アウグスティヌス修道院 その2

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アウグスティヌス修道院の聖堂。宗教改革の時、この聖堂もプロテスタントになった。しかし、修道院は、新しい修道士が入らない、ということを条件に、最後の一人の修道士が死ぬまで続けられたという。そのため、この聖堂がプロテスタントに改宗したとき、聖堂と修道院を結ぶドアに鍵がかけられたという。そしてこの聖堂は、徹底的にカトリック的な装飾を取り除いた。
 
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多くの聖堂の中には、その聖堂に関係の深い人物の墓が設けられることが多い。このアウグスティヌス修道院の聖堂の中にも、この修道院の最初の教師であり、最も偉大とされていた、ヨハネス・ザハリヤの墓が講壇の前にある。
ルターは修道士になる儀式の中で、このヨハネス・ザハリヤの墓にうつ伏せになって、彼のような立派な人物になることを誓ったという。それが修道士になる儀式だったのである。
さて、このヨハネス・ザハリヤは、1428年に死んだことがこの墓に明記されているが、一説によると、カトリック教会の誤りを指摘して、結果的には火あぶりの刑で殺されたヤン・フス(1369~1415)を尋問し、フスを火あぶりの刑に渡した人物の一人であるとされる。そして、これも伝承であるが、フスは死ぬときに、100年後に再び自分の主張は復活するであろうと預言したという。その真偽は別として、まさにそのちょうど100年後、ルターが現れたのは事実である。
ルターは最初、フスのことは全く知らなかったが、ルターに対する尋問が繰り返される中、彼はフスのことを知り、堂々と、フスの主張を認める宣言をした(ライプツィヒ討論)。やがて宗教改革の後、この会堂もプロテスタントのものとなり、ヨハネス・ザハリヤの墓も講壇の前の床と等しくなった。立入りを禁止する縄などもなく、多くの人々の足によってこの墓は踏みつけられ続けている。真理よりも、自分の立場を守るためにフスを死に渡したさばきが、このように500年間、続けられているとしたら、これも、神様はどこまでも真実であるという証拠となるであろう。